この歌の本当の意味、メッセージを知るためには『風の又三郎』をしっかり読み込み、さらに歌を読む必要がありました。
このブログでしか、ここまでの深読みを、意味を、メッセージは読むことはできないでしょう。
長くなってしまいましたが、ぜひご覧ください。
この曲、神曲です。
なぜ神曲なのか?それは読めばわかります。
読んだとき、あなたも神曲と思うでしょう。
Let's 深読み!!
✍️目次
・歌リンク
・歌詞
・考察
・歌と小説と
・特にモチーフもなっているシーン
・『風の又三郎』あらすじ
・歌とを繋ぐ重要なセンテンス
・宮沢賢治『風の又三郎』のメッセージ
・ヨルシカ『又三郎』のメッセージ
・又三郎の正体
🌀歌 リンク
🌀歌 詞
水溜りに足を突っ込んで 貴方は大きなあくびをする 酷い嵐を呼んで欲しいんだ この空も吹き飛ばすほどの 風を待っていたんだ 何もない生活はきっと退屈過ぎるから 風を待っていたんだ 風を待っていたんだ 吹けば青嵐 言葉も飛ばしてしまえ 誰も何も言えぬほど 僕らを呑み込んでゆけ どっどど どどうど 風を呼ぶって本当なんだね 目を丸くした僕がそう聞いたから ぶっきらぼうに貴方は言った 「何もかも思いのままだぜ」 風を待っていたんだ 型に合った社会は随分窮屈すぎるから それじゃもっと酷い雨を この気分も飛ばす風を 吹けば青嵐 何もかも捨ててしまえ 今に僕らこのままじゃ 誰かも忘れてしまう 青い胡桃も吹き飛ばせ 酸っぱいかりんも吹き飛ばせ もっと大きく 酷く大きく この街を壊す風を 吹けよ青嵐 何もかも捨ててしまえ 悲しみも夢も全て飛ばしてゆけ、又三郎 行けば永い道 言葉が貴方の風だ 誰も何も言えぬほど 僕らを呑み込んでゆけ どっどど どどうど
Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/yorushika/matasaburou/
🌀 考察
🌬️ 歌と小説と
ヨルシカ『又三郎』の素晴らしいと思ったところは、『風の又三郎』をベースとしながらも、独自の解釈と想いが込められている点です。ヨルシカ『又三郎』は、HPも素敵です。
その中で『又三郎』は、
現代社会の閉塞感、不安、憂鬱さなどを打ち壊して欲しいという想いを風の子に託した疾走感あふれるナンバー。
と説明されています。
ヨルシカ『又三郎』は、歌詞を読んでもわかるのですが、この現状を打ち壊してほしい、吹き飛ばしてほしい、というメッセージが強いものです。
一方で、そのモチーフとなっている『風の又三郎』は少しだけ意味合いが違うように思っています。
🌬️ 特にモチーフとなっているシーン
『風の又三郎』より↓
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹き飛ばせ
すっぱいかりんも吹き飛ばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
なんとあの金八先生で有名な武田鉄矢さんが、この部分について『風の又三郎』を考察しています。
「青いくるみ、すっぱいかりん」とは、まだ熟していない実のことであり、子どものことを意味しています。
大人になろうとしない、子どものままでいる、そんな人たちのことを指している、そうです。
そして、吹き飛ばせ、というのを込めると、
「大人になろうとしないものは殺してしまうぞ」
という意味であると
参考にこちらのブログを↓
参考:https://chugaku-juken.tokyo/archives/381
実は、この部分ですが、小説の中にでてくるところで言うと、主人公のひとりである”三郎”(風の又三郎とは別人?)が口ずさむ歌なのです↓
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹き飛ばせ
すっぱいかりんも吹き飛ばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
🌬️風の又三郎の あらすじ
引用:Wikipediaより↓
- 9月1日(木曜):山あいの小さな学校(分教場)に変わった姿の転校生高田三郎が現れた。みんなは伝説の風の精、風の又三郎だと思う。
- 9月2日(金曜):彼は学校で少し変わった態度を見せ、みんなを緊張させる。
- 9月4日(日曜):みんなで高原へ遊びに行く。嘉助が牧場の柵を開けてしまう。逃げた馬を追った嘉助は、深い霧の中で迷って昏倒し、三郎がガラスのマントを着て空を飛ぶ姿を見る。
- 9月5日(月曜):みんなと一緒にヤマブドウ採りに出かけた三郎はタバコ畑の葉をむしってみんなの非難を浴び(専売局に叱られるという理由)、また耕助と風について言い争いをするが、最後には仲直りをする。
- 9月7日(水曜):みんなは川へ泳ぎに行き、大人の発破漁に遭遇したり、専売局から来たように見えた男から三郎を守ろうとする。
- 9月8日(木曜):また川で遊ぶ(佐太郎が持参した山椒の粉で毒もみを試みるも失敗)が、夢中の遊びの後に天候が急変して、だれかが三郎をはやしたて、皆がそれに加わる。三郎は血相を変え、ふるえながら追求するが、全員とぼけて答えない。
- 9月12日(月曜):一郎は三郎から聞いた風の歌の夢を見て飛び起きる。折からの台風に一郎と嘉助は三郎との別れを予感し、早めに登校する。すると案の定、先生から三郎が前日に転校して学校から去ったことを知らされる。
🌬️歌とを繋ぐ重要なセ ンテンス
上記のあらすじだけでは、どこが歌と響きあっているのか、どこが違うのかがわかりませんよね。
そこで、この考察をするにあたって、読み直し、朗読も聞き込んで、考察してきたはるおが、ここは重要というポイントを5点補足説明していきたいと思います。
センテンス①
それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。
『風の又三郎』本文の中において、田舎のとある村に三郎という男の子が転校してくるところから物語がはじまります。
上記はその三郎についての記述です。
「まるで熟したりんご」という描写は、「青いくるみ、すっぱいかりん」に対して、まるで対局にあるような表現だと思いませんか?
三郎は都会から来た少年です。
たとえば、三郎がクラスメイトに「おはよう」と声をかけても、クラスメイトたちには友達に「おはよう」という挨拶をするのだ、という習慣がないために、戸惑ってしまったりします。
みんなは、三郎が「風の又三郎」という伝説の存在と、「三郎」という名前が同じために、「又三郎」と呼んでからかったりします。
三郎はみんなとも遊んで過ごし、子どもと同じように過ごしますが、ある事件によって様子を変えるのでした。
センテンス②
「うあい、うあいだ、又三郎、うなみだいな風 など世界じゅうになくてもいいなあ、うわあい。」
「失敬したよ、だってあんまりきみもぼくへ意地悪をするもんだから。」三郎は少し目をパチパチさせて気の毒そうに言いました。
三郎は、「風の又三郎」という伝説の存在にかけられてからかわれています。
みんなは「うなみだいな風など世界じゅうになくてもいいなあ、うわあい。」(おまえみたいな風など世界中になくてもいいんだ)
など、わりと酷いことを言われています。
いやいや、三郎と又三郎は別人だから気にしないのでは?とも思うかもしれませんが
この『風の又三郎』の奇妙なところは、三郎が本当は「風の又三郎」なのではないか?という疑念を、子どもたちも、そして読んでいる読者も抱いてしまう、そんな不思議さがあるところなのです。
風などいらない存在だ!
という子どもたちに対して三郎は、至って落ち着いて
「それはなぜだい?それでそれで?」
とその理由を聞いていきます。
センテンス③
「そらごらん、とうとう風車などを言っちゃったろう。風車なら風を悪く思っちゃいないんだよ。もちろん時々こわすこともあるけれども回してやる時のほうがずっと多いんだ。風車ならちっとも風を悪く思っていないんだ。それに第一お前のさっきからの数えようはあんまりおかしいや。ララ、ララ、ばかり言ったんだろう。おしまいにとうとう風車なんか数えちゃった。ああおかしい。」
引用:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html
子どもたちが風をいらない理由として、風車について触れたとき、三郎は上記のように言いました。
そうです。
子どもたちがいらないといっている風ですが、風車にとっては大事なものです。
子どもたちは、ただよくわからない風を恐れ、いらないと言っているだけなのだ、それはおかしいことだ、と言っています。
三郎くんは、ひとりだけとても大人ですね。
センテンス④
「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言いました。小さな子どもらはみんな砂利 に上がってしまいました。
引用:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html
子どもたちは、三郎やみんなと鬼ごっこをしていましたが、遊ぶのはもう止めよう、といって止めてしまいます。
これは、三郎をはじめはいじっていたのですが、それがやがてエスカレートしていき、本当に身の危険を感じたからです。
そして、どこからともなく三郎に向かって声をそろえて、子どもたちは歌い始めます。次のセンテンス⑤へ。
これめちゃくちゃ謎なんですよね。
センテンス⑤
みんなもすぐ声をそろえて叫びました。
「雨はざっこざっこ雨三郎、
風はどっこどっこ又三郎。」
三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして淵 からとびあがって、一目散にみんなのところに走って来て、がたがたふるえながら、
「いま叫んだのはおまえらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないっしょに叫びました。
引用:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html
子どもたちが叫ぶ「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎。」は、誰ともなく、叫ばれています。
なぜこの言葉なのか?
なぜみんな叫び始めたのか?
不思議なままなのです。
まるではじめから知っていた魔法の言葉のようですね。
そして、この言葉が元になって?
その日の夜の夢の中で
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹き飛ばせ
すっぱいかりんも吹き飛ばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
という歌を改めて聴くのでした。
そしてこの次の日、三郎は転校してしまって、みんなとはもう二度と会うことはなかったのでした。
🌬️宮沢賢治『風の又三郎』のメッセージ
『風の又三郎』では、三郎=又三郎なのだ、というのは、不思議と子どもたちの中では確定しています。
一方で、大人には、三郎は都会からきた三郎くんだ、となっています。
子どもにしかわからない、子どものうちにしか出会えないのは、例えば座敷わらしにあるように、妖怪や聖霊の類に見られる特徴でもあります。
田舎の子どもたちは、三郎と一緒に遊んでいきます。
しかしその中で、三郎は命を狙われたり、過激になっていく遊びの中で子どもたちも危なくなったりします。
そんな通過儀礼を過ごした子どもたちは、「遊びはもうやめる」と言い出します。
これが、キーワードになっています。
子どものままではなく、大人になることを決めた子どもたち、
通過儀礼を過ごした子どもたちは、魔法の言葉を叫び、その通過儀礼を終了としたのです。
子どもでなくなってしまったから、もう二度と風の又三郎には出会えなくなったのです。
『風の又三郎』では、このような子どもたちの成長、大人になる変化、そしてそれに伴う大きな破壊が描かれていると思います。
一方で、三郎の言葉にもあるように、風とはただ悪いものではありません。
普段から側にあって、そのありがたみには気づいていないものでもあるのです。
さて、このような『風の又三郎』をベースにして、ヨルシカの『又三郎』がどのようなメッセージが描かれているのか、見ていきましょう。
🌬️ヨルシカ『又三郎』の メッセージ
ヨルシカの『又三郎』でも、風とは変化をさせるものとして描かれています。
風を待っていたんだ
何もない生活はきっと退屈過ぎるから
風を待っていたんだ
風を待っていたんだ
「何もない生活はきっと退屈過ぎるから」
となってるのは、変化のない日々のことを指していると考えられます。
一方で、この変化をさせるというのは、成長させる、という意味で使われているのではないことが重要な点です。
ヨルシカの『又三郎』では、『風の又三郎』とは逆に、大人が子どもになりたくて風を呼んでいるこれが最も大きな違いです。どっどど どどうど風を呼ぶって本当なんだね
目を丸くした僕がそう聞いたから
ぶっきらぼうに貴方は言った
「何もかも思いのままだぜ」風を待っていたんだ
型に合った社会は随分窮屈すぎるから
それじゃもっと酷い雨を
この気分も飛ばす風を
「何もかも思いのままだぜ」というセリフは、そのあとの歌詞にある
「型に合った社会」の対比として描かれています。
つまり、『風の又三郎』=子ども、社会=大人という対比がなされています。
子どもにしか見えなかった『風の又三郎』なので、本来は大人になり型に合った社会の一員になってしまった人間には見ることができません。
ゆえに、そんな大人から逆行して子どもになる、という意味になっているのです。
また、他の歌と比較して、同じく子どもの頃を大切にする、や、本来の自分を大切にする、といった歌とは違う点をあげるのであれば、その破壊性と、破壊の必要性にあります。
吹けば青嵐
何もかも捨ててしまえ
今に僕らこのままじゃ
誰かも忘れてしまう
この言葉の意味するところは青春のこと、若いエネルギー、そして『風の又三郎』でしょう。
若い頃、青春の頃の、自分自身の夢や憧れに向かって進んでいたころ、型にはまっていなかった頃のことを指しています。
「今に僕らこのままじゃ 誰かもわからなくなってしまう」
型にはまってしまうことで、自分を失ってしまうのです。
青い胡桃も吹き飛ばせ
酸っぱいかりんも吹き飛ばせ
もっと大きく 酷く大きく
この街を壊す風を
なので、すべての型(この街)を壊す強い風を望んでいるのです。
「青い胡桃も吹き飛ばせ 酸っぱいかりんも吹き飛ばせ」
これは、先にも書いた
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹き飛ばせ
すっぱいかりんも吹き飛ばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
この三郎の歌であり、子どもたちが叫んだ歌でもあるのです。
これは、大人になる、という変化を生む風の又三郎の歌でした。
そういう意味では、このヨルシカ『又三郎』での歌詞の意味は、宮沢賢治『風の又三郎』とはまた違う解釈として使われていると考えられます。
「どっどど どどう」がヨルシカ『又三郎』では、又三郎を呼ぶ歌として描かれています。
であるなら、こちらの歌詞
青い胡桃も吹き飛ばせ
酸っぱいかりんも吹き飛ばせ
大人にならないやつは死んでしまえ、という意味、
そして、又三郎を追いやってしまう意味(子どもを吹き飛ばす)ではなく
青い胡桃、酸っぱいかりん=青くて酸っぱい青春の意味ではないでしょうか
そして、吹き飛ばすという意味は、破壊的エネルギーの大きさ、破壊して、また変化をするしかないという意味を示していると考えます。
青春を取り戻したいとしても、時間が巻き戻ることはできません。
だから、戻ることはできないのです。壊して、また新しく始めるしかないのです。
吹けよ青嵐
何もかも捨ててしまえ
悲しみも夢も全て飛ばしてゆけ、又三郎
行けば永い道
言葉が貴方の風だ
誰も何も言えぬほど
僕らを呑み込んでゆけ
基本的にこのラストにもあるように
「吹き飛ばせ」「壊す」「捨ててしまえ」とあるように
すべて破壊的な言葉が用いられており、そのエネルギーと型を壊したいという欲求が『風の又三郎』にも描かれていた命の危険、風の破壊性がその欲求と響きあっているのです。
ただ変わりたいのではありません。
壊して、新しく、子どもの頃の自分のようなエネルギーを持って前に進みたいのです。
「悲しみも夢も吹き飛ばせ」
あえて補足するのであれば”過去の悲しみ”と”諦めた夢”を吹き飛ばせ、と補足できるのではないでしょうか。
青春の頃から大人になって、悲しみを重ね、夢は諦めてしまった。
でもそれでも、また新しい夢も共に進んでいきたい。
諦めたという型を壊すしか、前に進む方法はない。
ここに破壊の必然性があるのです。
「永い道」という書き方がまた良いですよね~。
永いだと、時間の長さ、人生を感じさせます。
🌬️又三郎の正 体は?
さて、実は又三郎の正体については、宮沢賢治の『風の又三郎』でも、ヨルシカの『又三郎』でも、確定した正体というのは不明です。
宮沢賢治『風の又三郎』では、又三郎は伝説の風の精霊であり、その又三郎が人に化けた姿が三郎であるかのように描いていました。
ヨルシカ『又三郎』では、又三郎が風の精霊として描かれているのは同じです。
ここでさらに深読みをすると、、歌詞中には「貴方」という表現で「又三郎」を指しています。
吹けよ青嵐
何もかも捨ててしまえ
悲しみも夢も全て飛ばしてゆけ、又三郎
行けば永い道
言葉が貴方の風だ
誰も何も言えぬほど
僕らを呑み込んでゆけ
「言葉が貴方の風だ」とあります。
これも『風の又三郎』の意味もありつつ、また違っている部分でもあるのです。
風とは、物理的、自然的なものではありません。
青嵐は青春のエネルギーであり、そのエネルギーを吹き荒らすのは、言葉です。
『風の又三郎』でも、なぜ又三郎は三郎という子どもたちと同じ人間の姿となって、子どもたちと過ごしたのか?
人を成長させる、人に変化をさせるのは、やっぱり人だ、ということなのではないでしょうか。
そしてこのことを踏まえた上で、青春のエネルギーを自分自身に与えることができる人物とはだれか?と考えます。
これは私の考えなのですが、それこそ、青春の頃の昔の自分ではないでしょうか??
又三郎とは、貴方といいつつ、同時に自分でもあるのです。
だからこそ、言葉が風であり、言葉で変化するのです。
ラスト「僕らを呑み込んでゆけ」というのも、僕だけではなく、貴方もまた僕と一緒にいるものである、というのが、
本来は去ってしまうはずの「風の又三郎」ではなく、貴方は去らずにずっと僕と共にあるのだ、という意味だと思います。
正体といえば
MVで描かれている又三郎と思われる登場人物は
兜をかぶってマントをしてカメラで写真をとっています。
マントは、宮沢賢治『風の又三郎』でガラスのマント着て空を飛ぶのを指してもいます。
兜は子どもっぽさを示しているのではないでしょうか。
では、カメラは?
カメラは昔の姿をその姿で留めるものです。
ゆえに、青春のころの自分自身が写っている写真がキーワードではないかもと考えられるのです。
(ちなみに、登場キャラクターが鹿なのはヨルシカにかかっていていいですね。笑)
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